これからの時代、AIが生活の隅々にまで根を張り、
私たちの代わりに答えを出すようになるだろう。
AIに仕事を奪われる、あるいはAIという完璧な対話相手に夢中になりすぎる。
そんな予測が飛び交う中で、私たちが忘れてはならないのはAIと人間の決定的な違いだ。
それは、AIが扱える情報の「源流」にあたる一次体験の性質である。
この話でいう一次体験とは、身体を通して受け取る実感のことを指している。
「変換」のプロセスに宿る人間性
自分がその瞬間に感じた「痛み」や「焦り」「高揚感」といった、
きわめて主観的な感情や体感(一次体験)は、
言語という、他人に伝わる情報(二次データ)にして、
初めて他人に届く。
例えば、
「あの日は焦ったよ。
おろしたての新品の靴の、靴擦れが痛くて痛くて!
初デートなのに、待ち合わせに遅刻しそうだったし、
慌ててコンビニに絆創膏を買いに行ったよ。」
というような形だ。
つまり人間の中には
「一次体験を、二次データに変換する」
というプロセスが存在するということだ。
重要なのは、このプロセスの精度が個々によって違うということだ。
「個人というフィルター」を通過する瞬間に、その人の価値観、過去の記憶、
身体的な感覚を言語表現する能力が混ざり合うのだと思う。
AIが扱うのは、誰かのフィルターを通って形を成した
「既成の二次データ」の集積である。
だが、その膨大な二次データを自在に組み替えることで、
まるで一次体験の感情を“再現しているかのような”文章を生成する。
AI自身は雨に濡れたこともない。
冷たい雨の雫が顔を伝う感覚も知らない。
それでも、
「今日の雨は、まるで世界が静かに涙を流しているような優しい雨ですね」
と書くことができる。
対して私たち人間は、今この瞬間の生きた体験を自分だけの言葉に変換し、
新しいデータを生み出し続けることができるのである。
一次体験なき「理解」の危うさ
ここで考えたいのは、自らのフィルターを動かさず、
二次データだけで積み上げた「理解」の危うさである。
二次データは、一次体験を重ねることでその解像度が上がる。
自分で一度でも失敗し、その時の「苦い感情」をデータとして持っているからこそ、
他者の失敗談が血肉となって響くのである。
たとえば、幼い頃に読んだ絵本を、ふと大人になって読み返したとき、
その物語がまるで違って見えることがある。
あの頃は気づかなかった登場人物の気持ちに胸が詰まったり、
何気ない一節が、やけに心に引っかかったりする。
それはきっと、これまで自分が積み重ねてきた体験が、
同じ言葉に、あの頃とは違う意味を与えているからだ。
土台となる体験という「実感」が自分の中に打ち込まれていなければ、
どれほど膨大な二次データを頭に詰め込んでも、
机上の空論に似た、実体験を伴わない知識に留まってしまうかもしれない。
しかし、膨大な二次データを携えて一次体験に臨めば、
泳いだことがなくても、水の中で身体を動かす手がかりを持てるかもしれない。
行ったことのない場所でも、迷わず目的地にたどり着く可能性が高くなる。
一次体験と二次データの自由な行き来ができると、
人の可能性はぐんと広がる気もする。
未来に残るのは「一次体験を扱える人」
AIは否定もしないし、裏切らないように見える。
しかし、人間が成長し、自分という輪郭を形作るのは、
常に「思い通りにいかない摩擦」がある場所である。
自分のフィルターを通して一次体験を解釈し、
血の通った言葉や価値に変えていく作業。
このプロセスこそが、どこまでも人間的な営みだと思う。
いま社会にはコスパやタイパという言葉が溢れ、
効率よく正解を出す力はますます一般化していく。
ただし、誰でも同じ答えにたどり着ける世界では、
その答え自体の価値は、静かに下がっていく。
理屈で武装する前に、自分の中の体感や実感を増やすことが大切だ。
自分の身体や心を動かすこと。
人とぶつかり、自然にふれ、何かを考えること。
その喜びや、痛みや、違和感という「一次体験」を、
自分の中に積み上げること。
それを自分というフィルターを通して、
言葉や意味へと変換していく。
これから大事になる人材は、
一次体験をもとに問いを立て、
痛みや違和感を自分の言葉にし、
体験を自分の解釈で再構成できる人。
この価値は、相対的に高まっていくに違いない。
代替が難しいものこそが、
未来において最も必要とされる資産となるからだ。
二次データを扱う能力も大切かもしれないが、
それ以上に、自らの一次体験を扱える人でありたい。
これが、最後まで「自分」として未来に残るための道なのかもしれない。
そんなことを、私はいま考えている。
あなたは、一次体験を二次データに変換してみたことはありますか。

あとがき
今回の話では、一般に「一次データ」と呼ばれる測定データや、
現地取材などの一次情報とは少し違う意味で言葉を使っている。
ここでいう一次体験とは、身体を通して得られる主観的な実感のことを指している。